8月1日(月)

全国青年市長会(57市)の代表として、8月1日から3ヶ月間被災地である岩手県陸前高田市に派遣されることになりました。陸前高田市の戸羽市長が全国青年市長会(50歳未満で市長になられた若手市長の会)のメンバーだったことがキッカケです。陸前高田市は、市民の約1割の方が亡くなられるという最も甚大な被害を被った市町村の1つであります。3階建ての陸前高田市役所は津波に呑み込まれ、屋上のさらに上に敷設されているアンテナ塔だけが被害を受けませんでした。


今回、単なる行政職の補充ではなく、民間企業、NPO、ボランティアなどと連携するという「官民一体となった新しい支援体制」を築くことを目的に、現地に拠点を置くことになりました。現地のニーズを迅速に他の56市に繋ぎ、しっかりとしたバックアップ体制を構築したいと思います。今回は、松阪市四国中央市京丹後市の4人のメンバーで立ち上げをしております。松阪市からは深田正己・教育委員会事務局いきがい学習課長補佐も派遣されております。また、四国中央市からは高橋幹明・産業活力部・農林水産課・農業土木係長が、そして京丹後市からは田崎正浩・商工観光部・観光振興課主事が派遣されています。


7月31日の朝7時15分に松阪市役所を車で出発しました。日曜の早朝にも関わらず、多くの職員が見送りに来て頂きました。壮行式が行われることを全く知らなかっただけに、まさにサプライズでした。11時間半かけて一関市に到着し、夜9時から京丹後市四国中央市の職員たちとミーティングをし、一緒に居酒屋で軽く飲みながらチームワークの結束を誓いました。やはり、飲ミュニケーションは日本全国どこでも大切なことです(笑)。


8月1日に陸前高田市に移動し、宿舎に荷物を運び込みました。陸前高田市のご好意により、教員住宅をお借りすることになりました。松阪の宇気郷に似た環境だと思ったので、馴染みがある私には違和感はありませんでした。玄関にあったスズメバチの巣を駆除して頂いたと聞いておりましたが、これもご愛嬌様です。その後、市内を視察しました。私は7月1日に一度来たことがありましたが、瓦礫がだいぶ片付いたという印象を持ちました。実際は、集積所に瓦礫をダンプで運び出しているだけであり、見た目には片付いているような錯覚を起こしているだけです。


昼から「陸前高田市復幸応援センター」のオープニング・セレモニーを実施しました。陸前高田の戸羽市長、京丹後(全国青年市長会会長)の中山市長、四国中央の井原市長の3人による除幕式が行われました。2メートルもある立派な看板は村上製材所の村上富夫社長から寄贈して頂き、陸前高田市役所職員に字を書いて頂きました。実は、この看板には秘話が隠されていたのです。


陸前高田市は美しい海岸が観光名所になっていました。7万本の松の木が風や津波から市街地を守ってきました。中には樹齢300年を越える松の木もあるそうです。この美しく雄大な松林は2回の大津波には耐えましたが、今回は耐えられませんでした。たった1本の松の木が残っただけです。これが有名な「希望の松」です。流された松の木を洗浄し、製材して作られたのが復幸センターの大看板です。


寄贈して頂いた村上社長に夕方にお会いし、そのまま夕食に家に招かれました。ここで後藤勇一さん(http://gogo510.net/?page_id=5)というボランティアで長期滞在しているユニークな方に会いました。福井市の市議会議員だった彼は、市議会中にも関わらず3月17日から陸前高田に入りそのまま活動を続け、市議会議員に立候補せず5月1日に議員を辞任しております(2期満了)。本当に親切な村上社長に感謝しております。新しい素敵な出会いがありました。


復幸応援センター長 
小林 益久(松阪市