9月30日(金)

本日が私の派遣最終日。
京丹後の後は栃木県足利市に引き継ぎます。


8月1日から陸前高田に来て早2ヶ月。矢の如く本当にあっという間でした。
2ヶ月間の中で色々な人と会話したり様々な会議に参加することで「復興」とはどういうものか、最近ようやく分かりかけてきました。センター業務においては、仕事に対する取り組み方や方向性のベースとなるものが固まってきました。また、地の野菜やお惣菜をもらったり、何かイベントがある度に声を掛けてもらったりと、地元の方との関係も出来始めてきた所です。そんなタイミングで帰ってしまうのは非常に心苦しい気持ちです。


陸前高田の復興のために自分が出来る事はごくごく小さい事ですが、それでもこの2ヶ月でその内のいくつかは形に出来たかなと思います。しかし市民の皆さんにとって、私が成し得たと思っている事が、果たしてどれくらい復興の手助けになっているのか分かりませんし、中長期派遣と言えど、国や市が5年10年スパンでの復興計画の下に動いている中での2ヶ月間というのは、やはり短かったと思います。
そこの辺りのジレンマが私に帰るのを心苦しくしている理由ですが、実を言うと、単純に大好きな陸前高田の人や町と分かれるのが寂しいのでもあります。


今回、出発する前に私は自分の中で一つの目標を立てました。それは「出来るだけ多くの人と知り合う」というものです。多くの人と知り合ってどうなのか、復興応援が目的であって人生経験を積みに行くのではない、と言われればその通りかも知れませんし、確かにその部分もあったと思います。
しかし、出発前に高田での業務をあまり深くはイメージしていませんでしたが、地元の方と深い関係を構築して初めて仕事が生まれるという思いが自分の中で非常に強く、センターの在り方として、図らずしも自分の目標はそのまま業務に生かされたのではないかなと思います。


復興とは?支援とは?ボランティアとは?などなどを考える時、そこに関わる人の数だけ思いや意見があり、決して一面的に語ることは出来ません。自分で咀嚼しても噛み切れず消化不良している事の答えをこれから帰って考えようと思います。
そして今、陸前高田を出発する前に私は1つ目標を立てました。
陸前高田で経験したことや感じた事を、出来るだけ多くの人に伝える」。
これは目標と言うよりも現地に来た人間の責任だと思います。


これは私の感覚ですが、被災地は既にテレビの中の話になりつつあり、他人(ひと)ごとになりつつあるような感じを受けます。友人と電話で話したりする時、私はしばしばそういう感覚を受けました。
しかしそれは仕方がないことかも知れません。私も現地を訪れ自分の目で見るまでは、どこか他人ごとと感じている部分がありました。

これからは2ヶ月で得た貴重な経験を周囲に伝えて行こうと思います。

最後のブログが抽象的になり、復興について具体的な内容を書けないのは私の知識不足と力不足ですが、これで終わりではなく、これをきっかけにして遠く1,200キロ離れた京丹後から復興の応援を続けていきたいと思います。


帰り際に市民の方から言われました。
「まあ、どんな街になるか楽しみにしててよ!」
また必ず帰ってきたいと思います。


陸前高田の皆さん、本当にありがとうございました。
これから寒くなる時節柄、くれぐれもご自愛下さい。


がんばっぺし!


田崎 正浩(京丹後市